【開封注意】留学先で、孤独を感じたとき。哲学。

役にたつこと、人が読みたいことしか書くな、と自分に言い聞かせて書いてきたブログでしたが、少し休憩して、留学先で思ったことを書こうかなと思います。

根無し草

留学先では3日目、3週間目、3ヶ月目が辛いと言うことを、高校時代の英語の先生が仰っていました。高校の時は、全く本当じゃないと思ってた。

だけど、今回アメリカに来て、3週間立って思うのが、辛いなぁと。ふとした時に、根無し草になってしまったことに気がつくんです。日本人として日本の大学を出る訳でもなく、アメリカ人としてアメリカの大学を出るわけでもない。

スープに浮かぶ油の輪っかに、箸を突き立ててかき乱しても、元の油の輪っかは、何もなかったかのように、すぐ丸く円形に戻るように、日本にいる友達の輪は、私に手を振ったあと、何もなかったかのようにまた手をとって輪に戻る。生え変わったトカゲの尻尾。砂山から一つ砂を取り出しても、砂山は依然として砂山で。私がいなくなっても何も失わないんです、世界は。

でもよくよく考えてみると、世界の最小単位が一人の人間であり、コミュニティーの最小単位が一人の人間であり、会話の最小単位が一人の人間である以上、基本的に、人間っていうものはどこまでいっても孤独で、コミュニティーに属したり、誰かと会話したり、遊びに行ったりすることで、その孤独を一時的に忘れているだけのことです。だから、「孤独」というのは、もともと一人だということを、長い間忘れていた、ということです。

もともと一人だということを、長い間忘れていた。それは幸せなことなのか、はたまた愚かなことなのでしょうか?孤独を幸せとみるか、仲間を見つけるのを幸せとみるか。それは生を愛するか、死を愛するか、の二つに一つなのかもしれません。どちらか一つしか選べない。

多重人格がこれに対する解決法だとするなら、あなたはどう多重人格を利用しますか?

生を愛する人と、死を愛する人のどちらも手に入れるか、

孤独を紛らわすために二人自分の中に置いてしまうか、、、

もうこの時点で答えは出ていますね。人は孤独が怖い。孤独がつまらない。どちらにせよ、コミュニティーに属するという選択は捨てられないわけです。

なぜ自分一人だと不安なのでしょうか?そんなに自分のことが信頼できませんか?そんなに自分はつまらない存在なのでしょうか?母親が子供を愛するように、自分が自分の母親と子供に、同時になることはできないのでしょうか?

こう考える時点で最小単位である人間を二つに分解して孤独を紛らわそうとしていると思われます。人間には愛が必要だと。愛が最小単位では存在できないから、最小単位である孤独は疎まれる、と。もしかしたら、会話をすることが好きな人の方が、死を恐れる傾向にあるかもしれません。

しかし、愛なんてあるのでしょうか?スープに浮かぶ油の輪っかに、箸を突き立ててかき乱しても、何もなかったかのように、すぐ丸く円形に戻るような油の輪っかに、もともと愛なんてあったでしょうか?砂山の砂は、お互いをもともと愛していたでしょうか?

愛はどこにあるのでしょうか?最小単位である孤独に落ち着いたとき、愛が錯覚だったことに気がつくのでは?

そう考えてみると、この世の中は錯覚で、無いものを作り上げようと躍起になっているだけでは無いのでしょうか。それとも、最小単位が集まるとき、そこに愛は生まれるのでしょうか?それをただ単に、私が感じ取れないだけなのでしょうか?愛に向かない人間は、一人なのでしょうか?

多分私が愛を感じ取れていないだけだ、とキリスト教信者は言うと思います。だけど、それが答えであり錯覚でないと誰が言い切れるでしょうか?孤独な状態から愛を見れば錯覚であり、孤独でない状態から見れば愛は現実である。やはり生と死の隔絶は絶望的で、どちらも手に入れると言うことは難しいのではないでしょうか?

ただ、今感じていることは「状態」であると言うことです。属していた「生」の状態から孤独な状態の「死」に放り出された状態で、元ある「生」を欲するのは自然なことです。母親の乳から引き剥がされた赤子が泣きじゃくるのと同じことです。

いまの状態を楽しんでみる、今の状態を観察してみると言うことは、新しい考えに足を突っ込むことで、それはそれで楽しいのではないでしょうか。「孤独じゃなかった」過去の自分と、「ふと気がついたら孤独であった」今の自分を用意して、-iとiの存在しない最小単位で遊んでみるのも面白いのではないでしょうか。それは「孤独」と「孤独でない」状態の間で、遊ぶことができるのが、今だと言うことです。

コメント