【詩】衣更着信「孤独な泳ぎ手」の分析 コメンタリーの書き方解説

Japanese Lit

この詩を読むまで、衣更着信氏のことは知らなかったが、一気に好きになった。さわれそうで、さわれない野生のいわしを「life」と表現する詩。分析してコメンタリーを書いた。記事後半で、コメンタリーの書き方を例を用いて丁寧に説明する。自分が高校時代にコメンタリーの書き方でつまずいたところを全て網羅した。

 

文学分析においては自分は凄く未熟だけど、書いた文章を読んで欲しいっていうのと、解説文を書く勉強をしている人にはちょっと役立つかもしれないという気持ちがあるので掲載することにした。

ちなみに

  • この記事は全体で約1万文字ほどあるのでPCで閲覧しないと目が痛くなるかも
  • この解説文を書いた時の制限時間は2時間。
  • このエッセー自体の評価は7点満点中の7点で、自分が卒業単位もらった時も、日本語は7点満点中7点だったから、これと同じかそれ以上のものを書けば、高校生たちは満足いく評価もらえるはず
  • 解説文に対する担当教諭からのコメント:「大変面白い解釈です。一方で大枠の解説の説明が主になっているため、詩の細部への目配りが希薄になっている感じがします。特にレトリックに関してはもっと言及できるところがあります」だってさ。上げて下げられた感あって悔しいね笑
  • この「孤独な泳ぎ手」という作品はネットに上がってないのでリンクが貼れてなくて非常に申し訳ない。ネットで見つけ次第すぐに更新します。それまでに、このページに訪れてくださった読者様は、担当教諭に詩のコピーを工面してもらうか、図書館に行って詩集を探すか、作品無しで読んでください。本当にすいません。

3200モーじ 「孤独な泳ぎ手」の解説文

 

ピンク牛
ピンク牛

「孤独な泳ぎ手」は一九八七年に衣更着信によって書かれた詩であり、「いわしの集団」を「文学におけることば」、「泳ぐ」を「思考する」ことの比喩として使った大胆な作品である。主題は「思考することと作者としての悩み」である。これから三つの意味段落に分けて解説する。

 

ブル
ブル

第一意味段落は一行目から十五行目までであり、どうして作者が「文学に対する思考」を始めたか、そしてなぜ「思考する」泳ぎ手である「私」は「孤独」なのかが説明されている。まず作者である衣更着は、文学活動のために思考し、ひらめきに近づいたことがあるという告白を一行目の「いわしの集団のなかで泳いだことがあります」という文で行っている。「小いわしの群れが浜辺まで近寄って来ることがある」というのは、言葉をひらめき、文学に対する発想が出来そうな状態になるという意味である。これは四行目から六行目の「近寄っては離れ、固まっては小さく散」り、「雲の影みたいに紺色が走」ったように見えるいわしの群れの動きによって表されている。衣更着にとって、言葉・言語である「いわしの群れ」は自由自在に、浜からは見えたのである。そこで「いたずら心を起こ」した衣更着は、「魚の群れのほうへ泳いでみた」とある。これは、衣更着が作家としての好奇心をもって、「泳ぎ」はじめる、つまり文学的思考をはじめた、という説明と理由付けになっている。衣更着が「泳いでみた」のは、「いわし」が「せいいっぱい陸に近づいたとき」であり、自分の直感的ひらめきが、確信に近いものになるまでしんぼう強く待ち、機会を狙う作家としての姿が表されている。

ブル
ブル

十行目からは、「泳いでいるのは、わたしだけ」であり、衣更着の他に誰も文学思考をするものがいないことが表されている。決まった国語を教える「学校の先生」は衣更着の泳ぐ海を「危険だとか、水が汚れているとかいって」「子どもたちを泳がせない」事が示されている。これは衣更着が「孤独な泳ぎ手」である一つの理由であり、そこには、子どもに自由に思考させない「先生」たちに対する批判も含まれている。十四行目から挿入法を使用し、「秋になるとちゃんといわしをとってもうける商売はあります」と語っている。これは、「学校の先生」から習った<正しい言葉>を型にはめてつかい、社会で働くようになった昔の「子どもたち」の姿である。「いわしをとってもうける」という考え方は、「なかで泳」ぐという考えをもつ筆者と対立する関係にあることからもこのことは言える。

 

レッドブル
レッドブル

第二段落は十六行目から三十一行目にかけてであり、ここでは、「いわし」という「言語」に一度は受け入れられた衣更着が、自分の思考(ここでも「泳ぎ」で表されている)の限界を知る事になった経緯が示されており、これは衣更着が「孤独な泳ぎ手」である二つ目の理由となっている。まず十六行目に「(いわしの群れは)意外にも左右にさっと開いて、わたしを群れにはいらせてくれた」とある。ここで、「いわし」という「文学的発想」に近づくことは以外にも簡単であり、「詩の創作」はだれにでも開かれていたという気付きが示されている。この親和性に一度は疑問を抱き、「人間の害悪をかれらは想定しないのか」と考える衣更着は、やがてこれは「いわしども」に泳ぎの「技術」があり、衣更着にはつかまらない事を知っているからだと悟る。「いわしどもは、わたしが大魚ではないと知っている」のであり、自在に泳げない衣更着からの「害意」を「想定しない」のである。こうして衣更着の、魚を「二の腕のあたりをくぐ」らせたり、「腹のしたで盛り上がったり」させようというこころみは失敗に終わる。これは、言葉を自在にあやつることができない作家のもどかしさである。衣更着の、「スピードをあげてみても、方向を急に変えてみても」いわしに触れることはできないという表現は、浜で自由自在にみえたはずの言語(いわし)も、いざ思考する(泳ぐ)となると、あと一歩のところでとどかないのだ、という作家の告白と読める。ここでの、「与えられるスペースは最小限」という言葉は、表面上はいわしと衣更着の距離のことを表すが、象徴的には、衣更着の作家としての表現の幅のことを指しているのであり、自由自在のはずの言語(いわし)と自身(作者・泳ぎ手)には超えられない壁を感じているのである。浜という一般的なルートを離れ、文学的思考を要求する海に向かった衣更着は、ここでいわしと一体になれないことがはっきりすることで、「魚」でもなく「先生」でもなく、「いわしをとってもうける」人でもない、宙ぶらりんの「孤独な泳ぎ手」であることが理由付けられている。

 

らいとブル
らいとブル

第三意味段落は、三十二行目から四十八行目の終わりにかけてであり、「ひらめき」が見えているのにとどかない自身の思考と、そのもどかしさが、作者が感情を吐露する形で伝えられている。いわしの中で泳ぐ衣更着は、「雲からとはいわぬまでも、燈台のうえから見おろしたら」自分のいまいる風景も、「楽しい絵」になるだろうと語っている。「雲」からではなく、「燈台から」となるのも、衣更着が自身の限界を知ってしまったからである。仮に鳥なら届くはずの雲も、人間目線での産物、つまり「燈台」にとらわれていることが分かる。三十五行目には転換として、「しかし」が使用され、「わたしが思い浮かべていたのはlifeということば」だったとある。つまり衣更着は、いわしの中で「泳いでいる黄色いパンツの人間」を詩にするだけでは「楽しい」かもしれないが、不満であったと分かる。ここで衣更着は、いわしから伝わってくる生命力の体験を「life」という一つの言葉で表現することにしている。いわしは衣更着が触れられないということを表すために、日本語ではなく、「life」という英語が選択されていることからわかる。衣更着は「触れられない」ということがいわしの生命力であるから、それを失わないように英語の表現を選択することで、「いわし」という文学的表現に触れられない自分と決着をつけている。すなわち、この瞬間こそ、「いわしに触れ」ずに、いわしの生命力を表した瞬間であると読める。三十六行目の「泳いでいると妙なことを考える」というのは、泳ぐ事が思考することの比喩であることを新たな根拠である。

らいとブル
らいとブル

三十四行目と三十九行目における「さわれないんですよ、lifeは」「さわれないんです、lifeは」という同語反復法的表現は、その「文学的発想」に、さわれそうでさわれない、作者のもどかしさを強調している。四十行目からは、これまで度々使用されてきた敬語が使われなくなることから、文体の変化が指摘できる。これは、ここまで敬語で読者に話しかけるようにして書かれてきた四十行以前と対比されることで、作者が、自分の中にある「届かない」という感情を吐き出しているかのようなトーンを作りあげている。作家としての実感と、ひとつ残された「life」という「ことば」を使って、詩をクライマックスまで盛り上げている。四十行目から四十五行目には「太陽が激しく輝いていても」「目がくらむほど暮らしを続けて来ても」と、何をしても、「life」である「いわし」にさわれなかった事実が変わらないことが述べられており、ひらめきをのがした作家が、それを深くうけとめ、非常にもどかしく思っている様が列挙法によって強調されている。四十七行目、四十八行目で「あれがlifeなんだ」と反復して語っており、魚に触れられなかった苦しみが主張されている。

 

らいとブル
らいとブル

以上の三つに意味段落の解説から、衣更着信の「孤独な泳ぎ手」は「いわし」と「泳ぐ事」をそれぞれ「言葉」と「文学活動における思考」の比喩として使用し、主題である「思考と作者としての悩み」を表現した詩であると結論づける。これで「孤独な泳ぎ手」についての解説を終わる。 

 

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ピンク牛
ピンク牛

いえーい!完成だね!

ブル
ブル

…………………(うーん、うまくかけてるかな)

……………………………(もっかい読み直そ)

レッドブル
レッドブル

…………………(ブルは真面目だ)

………………(もう手が痺れたモ)

らいとブル
らいとブル

…………(ピンク牛だけ序論しかやってない!ラクしやがって!)

ピンク牛
ピンク牛

ん!?変に静かだけど!?どしたのみんな!!

解説文の書き方 基本

修辞法への理解を文章で表そう

高得点のために、修辞法を理解している証明が必要。修辞法が出て来る場所について言及するときは「●●では、〇〇法を使ってXXが表現されている。」など、修辞法の名前を積極的に挙げていくことが大前提だ。それに、きちんとした分析を次に続けることで説得力をもって解説できる。

引用はこれでもか、というほど多い方が良い

解説するときは引用の鉤括弧を多用。多すぎるよ、っていうくらい引用することで、「この分析は机上の空論ではありませんよ」という証明ができる。とくに詩を解説するときは、自分の解釈を読み手に納得させなければならない。引用の鉤括弧があるだけで、読み手を安心させることができるため、短いものーー例えれば「燈台」や「雲」などーーでも、鉤括弧で引用して文章に埋め込むのが良い。

分析対象箇所は行数字で明記する

自分の解説しているところが、どこであるかを、「●行目から○行目の…」という形で説明しよう。書き手の方が、自分の頭の中を説明しているから、読み手のペースを上回りがちだ。行数を記載することで、読み手が話についてきやすくなる。

筆者の名前は何度も書くから大切

筆者の名前を出すときは苗字を使おう。これはどのエッセーでも重要なことだ。ただし、苗字がどこまでで、名前がどこからか分からない場合は、リスク回避のために、フルネームで書くのが良いかもしれない。

自分は実際に「衣更着信」は「衣更」が苗字、「着信」が名前だと勘違いして、(このエッセーでは無いが)提出したことがある。「衣更着」までが苗字だと提出後にWikiで読んで気が付いて、凄く怖い思いをした。これによって減点されたかは分かっていない。苗字と名前の間にスペースを開けた状態で印刷された詩を配布してくれればいいのに。

エッセーを書いた友達は、全員が全員、衣更着信の漢字の読み方が分からずに書いていた。自分は「きさら ちゃくしん」だと思っていた。作者の名前にふりがなくらい振ってくれればいいのに。

まだ読み方が分からないのは良い。筆者の名前を間違えるのが一番深刻で、一度間違えると、最後までずっと間違えてしまうことになる。読み手も、いちいち間違った漢字が目に入ると、解説文の内容が頭に入りづらくなってしまう。

山括弧を活用しよう

原稿用紙の場合、山括弧を使うことで言葉を強調することができる。例えば、ここでは「正しい言葉」の周りに山括弧が使われている。先生たちにとっての「正しい言葉」と、衣更着信の思う「正しい言葉」は意味が違うからだ。このように、山括弧を適当な場所で使うことで、言葉の意味を明確に伝えることができる。

括弧の活用法は主に2種類

必要な情報をうまく文章に入れることができない場合は括弧を使っても良い。ただし多用するのは危険。

括弧は、引用した場所に説明を加えたい時にも使うことができる。このタイプの括弧に対しては、読み手も比較的寛容である。

自分の文章の癖を理解して、わかりやすい文章がかけるように工夫しよう

文章が長くなりすぎる場合は切る。自分の場合、何も意識せず文章を書くと長くなっていく癖があるので、そこを意識するようにしている。句読点が少なすぎる、一つの段落が長すぎる、など人の癖はそれぞれだ。自分の文章の癖を前もって、第三者に判断してもらうと、そこに常日頃から意識が向くようになるので良い。

タイトルの意味を考えておこう

本文に集中しすぎてしまうと、せっかくの詩の題名について分析し忘れてしまうことがあるから気をつけよう。詩の中身と詩の題名を結び付けることができれば、より一層説得力が増す。

構成についての単語もちりばめる

修辞法のときと同様、構成について言及できる箇所があれば、構成に関する言葉を書こう。「●●行目には転換点として…」や「冒頭にあたる○○行目では…」と書く事で、構成についての考えをやや断片的ではあるが、読み手に示すことができる。

修辞法「っぽい」箇所に対して言及する方法

使われている表現に、はっきりした修辞法の名前が無い場合は、その表現に一番近い修辞法を選択し、それに「的」をつけることで説明ができる。例えれば、「さわれないんですよ、lifeは」という言葉と「さわれないんです、lifeは」という言葉は全く同じ言葉の繰り返しでは無いので、厳密には同語反復法ではないため、「同語反復法的表現」と説明している。

エッセーの構想を練る方法 基本

ピンク牛
ピンク牛

(構想を練る上での大前提を黒毛和牛が熱弁してる… 変な牛…)

黒毛和牛
黒毛和牛

書き始める前に構想を練る。絶対に書きながら構想を練ってはいけない!テスト環境で、自分が構想している途中、他の人からエッセーを書き始めたボールペンの音がしたとしても、焦らずに構想を終わらせよう。きちんとした構想を練れば、他の人と同じように、時間内に終わらせることができる。

独自の解釈を見つける方法…

詩は独自の解釈でも根拠立てて説明できれば、それが分析になる。自分のなかで、詩に対する考えが浮かび始めて見たら、その観点から詩を読み返して、筋が通っているか確認しよう。

…もしくは解釈が見つからないときの解決法

独自の解釈が出てこない場合、「親しみのあるもの」を詩に投影してみるのも手だ。自分が共感できるもの、気持ちを汲み取ることができるもの、体験したことがあるもの、の視点で詩を読み、筋が通っていれば、これほど簡単なことはない。

面白いことに、自分の性格が投影されやすい詩というのは一定数存在する。この「孤独な泳ぎ手」もその傾向にある。自分の場合は、「イワシ」が「文学における発想」の比喩、語り手は「詩人」に思えたからこのエッセーを書いた。

筆者の友達がこの詩を読んだ時、「魚」は「育っていく生徒」であり、語り手は「それを見守る先生」だった。彼女のエッセーは、「小魚」が「魚」へ、そして成魚である「イワシ」へと、詩を通して魚のサイズが大きくなっていることに着眼して分析されていた。弟を大切にしている彼女の性格だからこそ生まれ出た、温かみのある解釈だ。

奇妙な雰囲気の解釈や、残虐な解釈、ドライな解釈。意識して個性的になろうとする必要はないが、通り一遍の解釈より、面白みのある解釈のほうが、読み手も関心をもってくれる。「普通に良い解釈」と「評価されるか分からないけれど、自分的にはビビッときた解釈」があるなら、後者を選んだほうが後悔が無いエッセーができると思う。個人的には。

これに対して、一つ重要な事がある。例えれば「戦時中の日本」を表した詩など、どう読んでも書かれていることがそのまま主題である詩も勿論あるということだ。その場合は、詩に書かれていることに忠実でなければならない。そこで読み取る方向を誤ると、評価は上がらない。課題の詩に書かれていることが、比喩表現として捉える余地はあるのか、それとも主題は正確に現れているのかを判断すること。

根拠を探そう

自分の解釈が生まれて、詩を読み返して、筋が通っていると思うのなら、「なぜ筋が通っているのか」を考えよう。筋が通っている箇所に線を引き、メモを残そう。それがそのまま、エッセーの根拠となる部品だ。

普通の構成を組み立てる…

一通り線を引き終わったら、集めた根拠を分類しよう。比喩についてはこれとこれ、構成についてはこことここ、といった要領で、何種類かのグループに分けられる。

そのグループがまとまりとなった段落を構成しよう。グループに何段落割くかは自由だけれど、ある一つのグループが凄く長く、もう一つが凄く短い、となると印象が悪い。それでも、段落は長すぎると要点がボケて読みづらくなるので、節目があれば段落を分けることが優先だ。

…もしくは意味段落ごとの構成を組み立てる

言及する根拠の種類が多すぎたり、分けたグループに基づくと詩をいったりきたりして説明しなくてはならない場合は、今回の例のように、詩を意味段落に分けて、それを一つづつ説明しよう。詩を意味段落に分けるメリットは、自分の解釈を最初から最後まで書き連ねればいいだけというシンプルさにある。線を引いた根拠を最初から最後まで説明していけば良いので、構成は考える必要がない。節目があれば段落を分けるだけだ。

意味段落に分ける場合のデメリットは、詩の細部への目配りが希薄になるところ。そして、詩の意味段落はどこかを考える作業が加わることだ。しかし、中学の頃の国語のテストとは違って、意味段落に厳密な正解は無い。とんでもない分け方をしなければ、大抵は問題になることは無い。また、意味段落ごとにエッセーの段落も分けて解説を書くので、極端に細かかったり、長い意味段落、短い意味段落があると、エッセーの構成も難しくなる。その都合も考えながら、合理的な意味段落を考えること。

意味段落に分けた場合は、「第●意味段落が○行目からX行目で…」という説明を冒頭か、段落のはじめで行うこと。これが無いと、読み手が何を話しているのか分からなくなってしまう。

時間内にエッセーを書き終える方法 基本

構想を練ったら書き始めよう

構想の練り方は、「エッセーの構想を練る方法 基本」にある通りだ。

序論はさっさと書く

最初の段落は序論。これは、だいたいどれも書く事は一緒だから二分で終わらせよう。分析の概論・要点を述べて、主題を明確化し、どのように解説していくかの大まかな流れが提示できれば十分だ。

文字を書くスピードをコントロールする

字がスキャンして読み手に送られた時に、読めるレベルになっているか客観視して、読めそうなレベルを保っているのなら、もっと速くかけるように。

大規模な書き忘れは後から修正

急いでいると、書きたかった一文を書き忘れることもある。もっと酷い場合は、かけたはずの根拠を書かずに次に行ってしまうこともある。何について書き忘れたかメモに残して次に進もう。たくさんの根拠が手元にある場合、時間が余らない場合もあるため、今戻って書き加える必要は無い。後から時間があればもどってこよう。

その文がないと全体の段落の意味が分からない、などの深刻な場合のみ、その時に書き加えよう。ただ、そのようなことが起きる時点で構想がうまくいっていないことが多い。

計画的な時間配分 こまめに現在の状況を確認

書きながら時間目標を定めよう。「時間が○○分になるまでに●●段落まで書ければ余裕があるから、それを目指そう」などと考えながら書く。そうして段落を一つ書き終えるたびに、時間配分の見直しを行う。そうすれば、時間が大幅に足りなくなって頭を抱えることは有り得ない。遅れてはじめたと気がついた場合は、これから書く根拠のなかで、一番優先度の低いものを削ったり、説明を短くする努力をしたりすれば大丈夫だ。

結論重要 一行の重み

最後になればなるほど、時間が迫ってくるが、1行の結論があるのと、結論が全く書かれずに終わるのとでは、構成に対する評価が変わって来る。絶対に最後まで終わらせよう。時間が迫っているが、良い結論が思い浮かばない場合は、最初に書いた序論をパラフレーズするなり、写すなりして完成させよう。たとえ写すことになったとしても、序論で話した要点に着地し、概論を回収できている点において、一貫性があると言う事ができる。

結論の質をどこまで上げるか考えよう

何度も言うが、結論がないとエッセーの構成に対する評価が落ちてしまう。そして、余裕があれば、一行ではなく、これまで解説してきたことをまとめて振り返ることができる信頼感のある結論で終わらせよう。

結論に「作品に対する評価」「作者の技法に対する評価」を加える友達がいた。実際、彼女のエッセーはトップクラスの評価を担当教諭からもらっていた。

自分は、限られた時間でしか読めていない詩を評価する自信が無いので、「評価」を一度もやったことがない。

これは正直個人差があると思うが、これまで書いてきた根拠にプラスアルファで何か言いたいことがあれば結論に加えられる。ただ、本論で書いてきたことに繋がりがない、どこからきたか分からないようなアイデアを書く事は、読み手を混乱させてしまうので絶対にやめておくべきだ。

時間ある 助けてもらう 吹き出しに 誤字脱字も 確認してね

時間があまった場合、ポイント4の、「書き忘れ」を吹き出しで書くことができる。また、誤字を直す、簡単な単語を高度な表現に置きかえる、書けるはずの漢字がひらがなになっているところを修正する、などもできたらやっておこう。テストの場合は安心材料になる。高度な表現への置きかえは、「○○であるといえる。」を「○○であると指摘できる。」など。

英語脳ならそれでいい

横文字言葉が思い浮かぶが、それを表す日本語が出てこない場合、横文字言葉で書いても大抵の場合は伝わるので、時間をかけて思い出す必要はない。例えば、「インスピレーション」を「閃き」や「発想」と書き換える必要はない。「アイデンティティー」を「自己同一性」に書き換える必要はない。

終わりに

お疲れ様でした。

それにしても良い詩です。「life」に触ってみたいです。自分も。

 

Reference 参考文献

“衣更着信.” Wikipedia, Wikimedia Foundation, 25 Nov. 2018, ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E6%9B%B4%E7%9D%80%E4%BF%A1.

 

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