さようなら、ドナルド・キーンさん

Japanese Lit

2月の24日に、文芸評論家・文学者・翻訳家であったドナルド・キーン氏が亡くなりました。本当に本当に悲しくて仕方がない。

ドナルド・キーン氏の文章を初めて読んだのは、安部公房の『砂の女』の巻末にあった解説文です。普通に解説者の名前を確認せずに、解説を読んでいました。

そこで終わりのほうにかけて、このような文章を読みました。

「もう一つ忘れてはいけないことは安部氏の文体である。文体の一番の特徴は、比喩の豊富さと正確さであろう。別の次元で、二つの観点から振り返ってみると、あらゆる現象の本質が分かってくる。」

この「別の次元」、「二つの観点」、「あらゆる現象の本質」が何を表しているのか、昔の自分は分かっていませんでした。今は、それが「砂」に「社会」を投影するという、大きな比喩的な観点からみるという別の次元が、あらゆる現象の本質「自由を求めた流動と定着」を表しているのだと分かるのですが。ただ、そのころの自分は、それを何回も読み返して、『砂の女』の本文も読んだのですが、どうしても答えがでないために、解説者に直接問い合わせて答えを聞きたいと思い、解説者の名前を初めて確認したのです。

そこで「ドナルド・キーン」という名前を初めて目にしてたまげました。てっきり、日本語を母国語とした方が解説しているものだと思っていたからです。

ドナルド・キーンという名前を調べると、やはり母国語は英語の文芸評論家・文学者・翻訳家、とありました。衝撃でした。自分は、日本語が第二言語だとしたら、ここまで説得力のある文章を書く事はできない。

とんでもない努力をしてきた、天才なのだろう、と思いました。でもドナルド・キーン氏は日本を愛していたから、日本文学を愛していたからこそ、他の日本文学者を超える、分析の強みがあったのだと思います。

解説で、もう一つ気になっていたところがあります。それは、

「このように『砂の女』を分析すると、安部氏に対して不親切を極めることになる。『砂の女』はいわゆる観念小説ではなく、優れた芸術作品であり、神話的な広がりもある。女が村人たちの前で男とセックスすることを断る場面や男が鴉の罠の中で水を発見する場面は読者の記憶の中で成長しつづけていくので、再び原作を読むと、ほんのわずかの言葉でできたこれらの描写に驚く他はない。」

「神話的な広がり」とは具体的にどのようなものなのでしょうか。私は「女が村人たちの前で男とセックスすることを断る場面」も、「男が鴉の罠の中で水を発見する場面」も、言われてみれば、ある意味象徴的だなと感じる程度で、そこに「神話的な広がり」という解釈は、自分一人では生まれませんでした。

まだ完璧には、ドナルド・キーン氏の解説文で与えられたヒントに対する答えが出ていません。それはドナルド・キーン氏が残してくれた、課題だと思う事にします。

それでもやはり、実際に安部公房について、ドナルド・キーンさんから話が聞きたかったです。今となっては、ドナルド・キーン氏が残した文章を読むことが文学分析の手がかりとして残されています。また、少したったら、ドナルド・キーンさんの本について記事を書きたいと思います。

一度でもいいから会いたかった。

コメント